昨日、セナ君のお芝居には「逆説的な論理」があるんだという話をしました。
「喜劇性が極まると悲劇になる」っていうのは、『解釈力と知的能力』の中で、榊原さんの論に対して書いた「ミーマイ」を具体例としましたが、「天使の季節」のアッサーラ王子も、「アーネスト」のジャックも、「パリ空」のアルマンドでさえも、その演劇の逆説的な論理を実際にセナ君は見せてくれていたと思います。
でも、思えば「悲劇性が極まると喜劇になる」っていうのも、現実にやってのけてますよね、セナ君は。
「喜劇」っていうと誤解を招きそうだから「ハッピーエンド」かなと思うんですが・・・。
例えば「二都物語」のシドニー・カートン。
愛する人の夫の身代わりとなって断頭台の露と消える男ですが、最後にあるのは彼の死です。
でも、究極的にはハッピーエンドなのかも・・という感覚がありました。
最近では、もちろん「グレート・ギャツビー」。
無惨な死に方ではあったけれど、彼は自分の生き方には後悔はない気がしました。
悲劇を極めるとハッピーエンドに見えるという、まさに決定的な二つの公演です。
「エリザベート」はその悲劇とハッピーエンドの反転を、実にわかりやすく演出している芝居なんじゃないかと思いますね。
それを、わりとはっきり示していたのって、今から考えたら「A-“R”ex」の最後の場面での、アレックスとニケのやり取りなんじゃないかとぴんと来ました(今更ですが)。
アレックス「主役には、一応こんなハッピーエンドが残されていた・・。・・・これはハッピーエンドなのか?」
ニケ「あなたがそう思えばね。私はそう思おうとしているわ。」
アレックス「・・・ありがとう。」
これって、セナ君の芝居の特徴である「逆説的な論理」そのままだったのではないか?と思うわけです(笑)。
なぜなら、「A-“R”ex」の外枠としてあるアレクサンダー大王の話としては、彼が熱病にかかって死を迎えようとしている状況です。
はっきり言って「悲劇」です。
でも、それが極まると、アレックスにとってのハッピーエンドとなるんですよね。
そして、さらに今回の「夢の浮橋」もまさにその論理の上に成り立っているわけで(笑)。
本当にオギーと大野先生は目の付け所が似ている(笑)。
つまり、「夢の浮橋」の外枠としては原作の「宇治十帖」があるわけです(笑)(ややこしくなってきました)。
私は以前に大野先生は「源氏物語」を批判・否定していると書きましたが、批判というよりは、逆説的に見ているんじゃないかなと思います。
だから、匂宮が主役なんです(笑)。
そこに、見る前からすでに、逆説・宇治十帖としての「夢の浮橋」のヒントが隠されているのではないかと思うのです。
どうも「A-“R”ex」の時と観客の混乱の仕方が似ている気がするので(笑)、そう思えて仕方がないんですよね。
なので、「A-“R”ex」で、アレクサンダー大王という史実がありながらも、舞台では一人の青年アレックスとして、歴史的事実の枠は崩さずに、アレックスの内面に迫って物語を描いたように、「夢の浮橋」も「宇治十帖」という原作がありながらも、舞台では現代にも通じる青年匂宮として、一応原作の流れは崩さずに(笑)、内面描写を重視しているんですよね。
以下、ネタバレあるので隠します。
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